



25年以上にわたりニューヨークに暮らし、そのニューヨークの地下鉄駅構内での演奏で名を馳せたひとりの日本人ミュージシャン=高木靖之。彼の活躍と、私にとって忘れられない出会いとなった彼のこと、そして運命を変えたニューヨークの街についてここに記す、スペシャル・インタビュー!!
ずっとロック少年だった私が、初めてジャズという音楽に興味を持ったのが、ニューヨークの街だった。みなさん知っての通り、ニューヨークと言えば数多くのミュージシャンと有名ジャズクラブを要する、世界最大のジャズの街と言っても過言ではない。こんなことを言うのもなんだが、34歳でニューヨークに移り住むまで、私はジャズには一切興味が無かった。それがニューヨークで出会ったジャズ・ミュージシャンたち~その多くはボストンのバークリー音楽大学から流れてきていたりするのだが、そんな彼らと仲良くなることで、私は初めてジャズという音楽に触れた。そこで出会った数多くのジャズ・ミュージシャンの中でも、私がその演奏に魂を熱く揺さぶられたのが、Yazこと高木靖之のサックスだった。ニューヨークには才能に溢れた日本人ジャズ・ミュージシャンも多いが、そんな中でダントツに心を奪われたのが、Yaz Band=高木靖之の演奏だった。
高木靖之は1992年4月に渡米。大学を卒業して地元・大阪で福祉の職に就いていたが、彼が安定した生活を捨ててまでニューヨークに夢を求めたように、先を見る者、夢を見る者、上を目指すものたちにとって、ニューヨークという街は、それらすべてが手に入る、その夢が叶う街なのである。ニューヨークの街はそんな魅力に満ちており、またそれは魔力と言ってもいいだろう。
彼は、渡米した当時のことを、こんなふうに語る。
「その時、友達~知り合いがふたりくらいニューヨークに行ってたんです。それとその時に、京都でバンドを一緒にやっていた友達にも、一緒に行かないか? って誘われたんです。そんな感じで、いろんなタイミングが重なっていたんです」
ジャズやソウルが大好きで、大学時代にサックスを始め彼は、渡米も遅く29歳の時だった。その時、彼はニューヨークという街に何を思ったのだろうか?
「やっぱり、当時からニューヨークと言えばジャズの街っていう印象はありました。でも、やっぱり最初は怖かったですよ(笑)。地下鉄を乗り間違えて、変なところに行ってしまったりして、そんな時は物凄く怖かったです! そうやって、最初はビクビクしながら生活してました。僕がニューヨークに行った時って、ちょうど市長がジュリアーニに変わる頃だったんですよ。なので、僕が行った時はまだ、地下鉄にいっぱい落書きがあったし、タイムズスクエアにも風俗店がいっぱいありましたしね。どこも、なかなか安心して歩ける街ではなかったですね」
1994年からニューヨーク市長を務めたルドルフ・ジュリアーニ氏は、ニューヨークの街の犯罪率を大幅に下げ、ニューヨークの治安を改善したことで知られる政治家だ。彼の功績により街からは犯罪が減り、地下鉄に描かれた落書きは消され街は美化され、ニューヨークは安全な街へと変化を遂げたのである。2004年からニューヨークの街に住み始めた私は、特に怖い思いをすることもなく、ニューヨーク生活を謳歌することができた。私のような、特に日本人にとっては、ジュリアーニ市長の功績は多大なるものだったと感じられるだろう。


本場でジャズをやりたくて、夢を持ってニューヨークの地に移り住み後に成功を収める高木靖之だったが、そんな彼にとっても最初からうまく行くほど甘いものではなかった。
「最初はぜんぜん思ったようには活動できなくて、皿洗いをやったりとか、旅行会社で働いたりとか、練習するばかりなだけで、最初の十年くらいはぜんぜん活動できなかったんです。それで、2001年に起きた9.11の同時多発テロの時に、それまで勤めていた旅行会社から「もう仕事が無いので、やめてください」って言われて、仕事を首になってしまった。そこから、じゃあこれからどうしようかってなって、地下鉄駅構内で演奏しようかってなったんです。それまでも少しやっていたんですけど、その地下鉄駅構内での演奏活動に本腰を入れるようになったのは、その9.11以降ですね。地下鉄駅構内で演奏しようってなった時に、旅行会社を首になって、その後に、ひとつ日系企業の面接に行って受かってたんですけど、音楽活動を頑張らなきゃいけないからって、そこを断ってアルバイトを探したんです」
私が最初に彼に会った時には、彼はマンハッタンにある日系書店でアルバイトをしていた。
「そうなんですよ! 紀伊國屋書店のバイトは時間の融通が利いたので、週3日とか、4日とか働いて、それ以外の時間は地下鉄駅構内での演奏に費やしていた感じですね」
当然生活も苦しく、思うように音楽活動もできない。それを変えたのが地下鉄駅構内での演奏であった。そこでのパフォーマンスが話題を呼び、地元テレビ局や雑誌、新聞などが彼の演奏を取り上げた。いつしか彼は、ニューヨークの街でちょっとした有名人になっていた。さらには、日本で旅行ガイドとして有名な「地球の歩き方」の中でも紹介され、ニューヨークを訪れる日本人ならば、必ず彼の演奏を見た方がいいという、ある種名物のようなものにもなっていた。実際、そういう私も何人かのニューヨークの友人たちに、彼のパフォーマンスは素晴らしいので、絶対に見た方がいいと推薦されてた。
「紀伊國屋のバイトと、嫁さんも働いていたし。演奏の方も最初はぜんぜんチップも入らなかったですけど、半年くらいしたら、割とけっこう、そこそこチップも入るようになったですかね? それにCDも売れるようになってきました。その頃はもういろいろ取り上げてもらって、韓国など他の国にも演奏で呼んでもらうようになっていましたし、そういう意味では、存在をいろいろ知ってもらえてはいたんでしょうね」

高木靖之の演奏、まずその熱いパフォーマンスに驚かされる。とにかく激しく動くのだ。それに、音がデカイ。特にマイクをつけて演奏しているわけでもない。その音圧、全身から迸る熱気に胸を揺さぶられるのだ。その圧倒的なパフォーマンスに、日本人観光客はもちろんなのだが、地元のニューヨーカーたちが足を止めて、彼の演奏を食い入るように見つめる。中には、演奏に合わせてその場で踊り出す陽気なアメリカンも多かった。そういった客と一体化したパフォーマンスはニューヨーク地下的駅構内での名物になっていたとも言える。
「その頃は、楽しかったですね。自分たちでCDも作れるようになっていたし。でも、まだバイトもしいてましたけどね(笑)。バイトは2011年までやってましたね。それくらいからイベントやパーティなんかにもたくさん呼んでもらえるようになったんです」
ここでひとつ、海外移住などに興味がある方にむけて、言葉に関しての質問をしてみた。
「言葉はぜんぜん勉強しないで行きました。ただ、演奏に呼んでもらうことに関しては、言葉云々じゃなくて、本当に演奏の良し悪しで呼んでもらえていたので、その辺はありがたかったですね」
高木靖之率いるYaz Bandというのは、日本人とアメリカ人の混成チームである。
「でも一時期、メンバーを日本人だけにしようと考えたことがあって、それはアメリカ人は非常に時間にルーズなんですよね(笑)。あと、契約のことなんかに関してもいい加減だし。それと、日本に帰って活動することも考えていたので、日本人とコネクションを作っておこうというのもありました。それで、あえて日本人だけにした時期もありました。でも、日本人はけっこう自分が演奏したいソウルの曲とかを知らなかったりするんですよね。黒人なら絶対に知っているだろうって曲を、日本人のプレイヤーはけっこう知らない(笑)。どうしてこの曲を知らないんだ!? っていうのがけっこうあったんです。それでまた、アメリカ人に戻したんです」
日本人とアメリカ人、それぞれに良し悪しがある。私が見ていた限りでは、いろんなことを踏まえたうえで、日本人とアメリカ人の混成が良かったように思う。アメリカ人~特に黒人のリズム感覚は独特で、日本人には敵わない、手も足もでないほどのものがある。一方で、日本人は非常に勤勉で正確な演奏をする。ニューヨークの街には、バークリー音大を首席で卒業して~みたいな日本人ミュージシャンも多い。その中のひとり、このサイトでも紹介している私の友人でピアニストの神田斉(ひとし)くんも、バークリーを首席で卒業してYaz Bandに参加していたミュージシャンだ。コラムにもYaz Bandのことを、彼のコメントを交え書いているので、ぜひ読んでみて欲しい。
「アジア人でもいい演奏をすると、ライヴとかパーティなどに呼んでもらえるというか、日本って人間関係とかコネとかがあって、そういうのって大変じゃないですか? でも、ニューヨークではそんなものは関係ない。地下鉄で演奏してるのを聴いて凄く良かったら、次はうちのパーティに来て演奏してよとかって、そういうふうに仕事が来るのです。そういうところが良かったですね。地下鉄駅構内でやっていると、直接、お客さんのレスポンスが来るんですよ、それがバンドの形を作って行くのには凄く良かったそういう直接反応が見えるのがバンドや演奏に役に立ったと思いますね」


ジャズの本場、ニューヨークにその名を轟かせた高木靖之だったが、そんな彼の中に過る不安があった。
「帰国したのは妻の病気なんですけども、妻は以前から他にも病気をしていて、これはおいおい帰ることになるだろうと思ってはいたんです。それで、妻の実家がある札幌のミュージシャンたちとも交流を持っとかなきゃな~と思っていた時に、とうとう妻の病気が重いものになってしまって・・・。それで、急に帰って来なきゃいけなくなったので、ちょっと準備不足はあったかなと思いますね」
帰国した理由が、大事な奥様の病気ということで、言ってみればしょうがないことなのだが、でも非常に残念な思いもある。
「帰って来るいうこと自体はどうってことなかったんですけど、いざ帰って来てみると、やっぱり帰って来るんじゃなかったな~とは思いましたね。やっぱり今でも、ニューヨークには戻りたいんです(笑)。でも、もうね、グリーンカードも切れてますしね。また新たにビザを取り直してって考えると、けっこう難しいですよね。まあ、旅行でちょっとね、行けたらいいなくらいですかね(笑)」
そういった事情もあり、今は奥様の実家がある北海道札幌市で活動を続ける高木だが、その札幌の街での活動をどう考えているのだろう。
「いくら札幌がジャズが盛んな街って言ってもね、そこでアマチュアの人たちがいくらたくさん演奏しててもねぇ・・・、まあこんなことを言ったら怒られるかもしれないですけど(笑)。かと言って、地元の大阪も東京も、そもそも考えてなかったですし。東京は僕はまったくコネが無いですし、あんまり日本で演奏活動をやれるとは思ってなかったんですよね。そう思っていたので、帰ってきたもの、実はけっこうイチかバチかだったんですよね(笑)。心のどこかで「やっぱり無理だろうな~」って思いながら帰ってきました(笑)。だから、帰って来てかなり落ち込んでましたね(笑)」
彼は、「今は前向きな話があまりできない」と声を落とす。
「日本に帰って来て、全部ブチっと切れてしまった感じなので。そもそも、音楽に対する需要、マーケットがニューヨークと日本ではぜんぜん違うんですよね・・・」
今現在、彼と話をするとそんな言葉が出てくるのだが、私はまだ彼の演奏を、高木靖之というミュージシャンを諦めたくない。できることならばもう一度ニューヨークで・・・とはなかなか難しいだろうから、今いる日本で~東京や彼の地元・大阪などでも活動、活躍して欲しいと願うのだが。そこで私=米田の地元である札幌で、現在ベーシストとしてYaz Bandに参加する金野俊秀氏に、Yaz Bandについて話を聞いてみたので、ここで紹介したい。
元々は金野がホストのセッションに、高木が参加したのがそもそもの出会いのようだが、その時の高木の印象を金野はこう語っている。
「東京やNY等で長く活動されてた方というのは、オラオラ系な方が多いのですが、予想に反して謙虚で腰が低かったのが印象的でした」
こうして知り合った高木と金野が、初めて一緒に演奏したのはルスツリゾートホテル内での演奏仕事に、高木から金野を誘ったことだったようだ。その金野は、高木の音を聴いた時の印象を、こう語っている。
「音が太く芯があるなと思いました。きっと生音が基本の、ニューヨークの地下鉄演奏による経験で培われた音色なんだろうなと。フレージング、リズムのタイトさも素晴らしく、このようなテナーサックス奏者は札幌ではあまり聴いた事なかったので感銘を受けました」
ニューヨークで知り合ってその演奏に感動を覚えた高木靖之と、またこうして日本で、しかも私が生まれた街、札幌で再会したのも何かの運命なのだろうと思う。こうやって何かに導かれて再会したのだから、私はもっと高木靖之の演奏の中に、何かを見出したくてしょうがないのである。そして、旭川出身で現在は札幌で活動を続ける金野も何かに導かれて出会ったひとりだと思っている。
「大事なのは如何に自分らしさを楽曲の中に組み込めるかだと思います。 楽しさとやり甲斐に溢れたYaz Band、いつも誘っていただきありがとうございます。 まだまだ精進しますので今後ともよろしくお願いいたきます」
そんな彼の言葉を聴けば、必ずそこに何かを感じて、高木靖之の中にも動き出す何かがあるのではないかと、私は信じている。
札幌とジャズと言えば、このサイトでも紹介させて頂いている、現在はニューヨークで活躍する天才、サックスの寺久保エレナが有名だ。他にも、私や高木靖之と同じ時期にニューヨークでその腕を磨いていた、奇才ジョン・ゾーンの弟子でもある吉田野乃子もそうだ。他にも、Young Jazz Magazineを立ち上げるに際して、金野俊秀のように新たに知り合ったミュージシャンも多い。そもそも、ニューヨークで知り合った高木の奥様が札幌出身で、残念なことではあるが、その奥様の病気で彼が札幌で演奏活動をすることになり、金野俊秀たちと演奏をともにするようになったのも、私にとってはかなりの運命だと思えるのだ。
こうしてニューヨークから札幌へと繋がれた1本の糸を、今度は日本へ~東京へと紡いで行きたいと私は強く願っている。人のエネルギーを放出する、一番の瞬間は出会いだと私は考えている。人のエネルギーが溢れかえる熱い街=ニューヨークで出会ったひとりのミュージシャン=高木靖之。私は彼の演奏をまだまだ諦めたくない。だから、高木靖之本人も、まだまだ決して諦めて欲しくないのである。そう強く願う次第である。


Yaz Bandホームぺージ
Yaz Band YouTube
https://www.youtube.com/@yazband
ベーシスト金野俊秀ホームぺージ
https://bassist3.webnode.jp/



80年代シティポップがブームになる最中、今また注目を集めるシンガー、和田加奈子さんの名曲「パパのJAZZ」についてご本人に語ってもらったスペシャル・インタビュー!
「パパのJAZZ」
作詞:和田加奈子 作曲:TSUKASA 編曲:白井良明
日曜日の朝の夢 いつもJAZZが流れててた
小さなパジャマのまま 眠い目をこすると
コーヒー挽く香りと 大きなステレオとパパ
宝物をみつけたように レコードかけていた
グレンミラー サッチモ カウントベーシー
モノクロのジャケットたち
話しかけていた パパはもういない
大人の私の部屋には いつも流れてるパパのJAZZ
音楽を知ったとき パパをわかり始めてた
よくケンカをしていたのは 似ているパパと私
一度でいいパパの好きな曲
となりで聴いてみたかった
JAZZと恋のステキなお話 聞いてみたかった
一人の私の部屋には 今も流れてるパパのJAZZ
いつも流れてるパパのJAZZ
1985年にシングル「パッシング・スルー」でデビュー。1987年には、少年ジャンプで連載され、コミック累計2000万部を売り上げた大ヒット・アニメ『きまぐれオレジ☆ロード』の主題歌「夏のミラージュ」を歌い、大きな注目を浴びた。しかし、残念ながら1991年には、音楽の世界から退いた結果、実質6年という短い活動期間ながら、当時の音楽ファンたちにその姿を印象付けた彼女。
当時、まだ高校生だった私は、彼女が作曲家・アレンジャーとして知られる井上鑑氏のアシスタントとして出演していた、NHK教育テレビ(Eテレ)の『ベスト・サウンドⅡ』という番組でその名を知ることとなった。初めて彼女の歌声を聴いたのは、番組の企画で作られた「BOY」(作詞:和田加奈子、作曲:井上鑑)を歌っている時だった。彼女の歌声は印象的だった。特に、高音域を強く伸ばした時、微かにしゃがれるところにとても色気があり、ロック的なカッコ良さを感じていた。私は、すぐに彼女の歌声の虜となった。
そんな彼女が作詞した中に、「パパのJAZZ」という歌がある。今回はそこに引っかけて、このサイトの制作者・米田ならではのスペシャル・インタビューを、初めてのSPECIAL CONTENTSとしてお届けしようと思う。まずは、その「パパのJAZZ」について話を聞いてみた。
「父は音楽が凄く好きな人で、映画音楽とかジャズとか。昔は音楽を聴くための機材って、今と違ってステレオっていって、箱型の家具みたいに凄く大きなものだったんですよ。当時は家族みんなで寝る狭い部屋の空いている場所に、そのステレオが置いてあったんです。父はサラリーマンだったので、土日しか休めない。特に日曜日は朝からレコードを聴くのが趣味だったんですが、それは家族が寝ていようが関係なくて(笑)。スピーカーの近くで寝ていると、その大きな音で目が覚めるので、いつもパジャマのままいろんな音楽を聴いていた覚えがあります」
彼女が綴った歌詞の中には、グレンミラー、サッチモ(ルイ・アームストロングの愛称)、カウントベーシーといった、実在したジャズ・ミュージシャンたちの名前も出てくる。
「その辺は父が好きで、いつも聴いていた人たちです。レコードしか無かった時代で、レコードをかける時って、横にジャケットを立てかけるじゃないですか? そこに並んでいたのがその人たちだったんです」
その当時、お父さんが好きで聴いていたジャズという音楽を、彼女はどう感じていたのだろうか?
「幼い頃、なんとなく自分が聴いていて“これいい音楽だな”って思っていたのが、今思えばジャズだったんだなと思います。いろいろジャズだったり、映画音楽だったり、あとラテン音楽もあったんですけど、そこで誰が演奏してるというのをわかってなくて、「これ誰?」って、父に聞いた覚えがありますね」
そして、その後も当時の様子が伺えるような描写が続いて行く。それが、彼女がジャズと出会った頃のストーリーだという。
「この歌詞の内容が、その時のストーリーそのままなんです。ただ、ちょっと美しくは書いてますけどね(笑)」
その歌詞からも、彼女の話からも、当時の音楽事情というか、音楽を聴くということに対する背景、風景、情景が見えてくる。
「私がデビューして、まだしばらくはCDではなくてレコード盤だったんですね。で、だんだんとCDになっちゃって。ただ、父からレコードをもらってたりしたので、当時もまだ自分でもレコードをかけて聴いていたんですよ。その時は、そんなに大きなステレオではなくって、ミニ・コンポですね」

時代背景、時代の風景とジャズ、そんなものが彼女の話から見えてくるようだ。彼女は、ジャズに対してこんな風に想いを寄せている。
「ジャズは当時、簡単に歌っちゃいけないものだと思っていました。なんて言うのかな~? 凄く難しくて、簡単に手を出せる世界じゃないと思っていたので、やっぱりジャズって上手な人じゃないと駄目ってイメージがあるじゃないですか。私たちの歌うポップスとは、スピリチュアルな部分、ソウルが違うから、そう簡単には“私はジャズを歌います”とは言えなかったですよね」
私はこの媒体を通じて、若いジャズ・ミュージシャンたちと接しているが、彼女の言うように私たちの世代~40代後半から50代以降の人間にとっては、確かにジャズというのは難しい音楽、簡単には手が出せない音楽という印象を持っている人も多いかと思う。今の若者たちは、早くからジャズに触れ、良い教育を受け、いとも簡単に演奏してしまう印象がある。だが、その反面、誰でも簡単に手を出せる音楽になり、昔と今ではジャズを歌う、演奏するという意味が変わってきているのだろう。それは、いい意味でも、悪い意味でもだ。
「ジャズは聴いて心地よい音楽というのは間違いないし、ジャズは好きな音楽なんですけど、自分が歌うというのは、ちょっとまた別ですよね」
彼女ほどの歌手でも、実際に自分が歌うとなるとまた別物なのだと言う。多分、歌うというのと、楽器で演奏するというのではまた違うのだろうとも思うが、そこには彼女なりのプロのシンガーとしての自覚、プライドからくる言葉なのであろうと私には感じられた。正面向いて、歌うということと本気でぶつかっているからこその、その言葉は重いと感じる。でも、そんな彼女だからこそ、余計にこれからはジャズを歌っている姿も見てみたいと思うのだが。そう問いかけると、彼女からはこんな言葉が返ってきた。
「(ジャズを)たくさん勉強したら、自分でも歌ってみたいなとは思います(笑)」
そんな彼女に、昨今、精力的に活動する若いジャズ・ミュージシャンたちをどう感じるのか聞いてみた。
「ジャズは年齢とは関係ないし、私がジャズを聴いて最初にオッと思ったのも小学生くらいでしたからね。今若い人たちが積極的にジャズをやっているのなら、ぜひやって欲しいと思うし、でもその辺のジャンルって難しいですよね。私の音楽とか歌っていうのは、当時ニューミュージックとか、シティポップとかって言われていて、自分にとってはジャズは難しいと思ってしまうんです。でも、ジャズは好きなので、これから自分でも歌えるように頑張ってみますね(笑)」
最後に、昨年久しぶりに音楽シーンに帰ってきた彼女の心情を聞いてみた。
「35年振りに本格的に歌ってみて、本当は音楽が大好きだったのに、デビューしたのはいいけれど当時は何だか歌っていて悲しくなるようなことがあったんですよ。その辺で、歌うことに苦しんでしまってやめているので・・・。ただ、30年以上経ってから、そこに何か忘れ物をしてきたんじゃないかっていうような強い気持ちがあったんです。自分がけじめをつけずにやめてしまったという想いですね、自分自身に対して。それで、いろんな人から、「もう一度やって欲しい」という声を頂いて、それが今かなと思ったのが去年だったんです。でも、最初は本当に去年1回切りというつもりだったんですが、やってみると、そこからまたいろんな人から背中を押されて、私自身も歌ってみて凄い気持ち良かったっていうのもあって、それで年に1回くらいだったらという気持ちでスタートしたんです」
私のように、ずっと彼女の歌を聴き続けていた者にとっては、年に1回とは言わず何回でもやって欲しいと思うのだが、「そこは、声のメンテナンス的なこともあるので・・・」と少し声のトーンを落とされると、それ以上無理も言えないのが寂しいところだ。でも、昨今の80年代ブーム、シティポップのブームが彼女の背中を押してくれるんじゃないかと密かに期待をしている自分もいるのが事実だ。
彼女の歌を知らない若い世代の人たちも、今はYouTubeなどで、彼女の歌を聴くことも簡単にできる。もちろん、今回取り上げた「パパのJAZZ」もアップされているので、ぜひ彼女を知らない人たちにも聴いてみて欲しいと思う。
[ライヴ情報]
2025年10月12日(日)
Birthday Live-特別シートsceane2-
at 目黒Blues Alley Japan
https://www.bluesalley.co.jp/

Special Thanks:中島睦/池上尚志(音楽ライター)